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大阪地方裁判所 昭和54年(ワ)5172号 判決

原告

多田正詳

外二名

右原告ら訴訟代理人

田原睦夫

飯村佳夫

水野武夫

栗原良扶

被告

右代表者法務大臣

坂田道太

右指定代理人

井筒宏成

外五名

右訴訟復代理人

森谷正秀

小藤登起夫

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告らに対し、それぞれ金三五〇万円及びそれらに対する昭和四四年九月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨。

仮に原告らの請求が認容され仮執行宣言が付される場合は担保を条件とする仮執行免脱の宣言。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

原告多田正詳は訴外亡多田恵美子(以下「恵美子」という。)の夫、原告多田紳一はその長男、原告多田裕彦はその次男であり、訴外軽部泰則及び訴外福井健二はいずれも本件契約当時被告の機関である国立大阪病院に勤務していた医師であつた。

2  本件医療契約の締結

恵美子は、昭和四四年八月二三日国立大阪病院に入院するに際し、被告との間で、胞状奇胎及びそれに関連して生ずる病気等を完全に治療すべきことを内容とする医療契約を締結した。

3  恵美子の病状及び被告の診療の経緯

(一) 恵美子は、昭和四四年三月一〇日最終月経があつた頃より、大阪市都島区で産婦人科医を開業している訴外恵木民子の診療を受けていたが、同年五月六日に妊娠三か月との診断を受けた。その後同年六月一〇日に同医師から妊娠中毒症及び膀胱炎の診断を受け、その治療を続けていたところ、同年八月二〇日頃、同医師より胞状奇胎の疑いがあるとの診断を受け、国立大阪病院での受診を薦められた。

(二) そこで、同年八月二〇日に国立大阪病院産婦人科において診療を受けたところ、直ちに入院して治療を受けるべきであるとの診断を受けたので、同月二三日同病院に入院した。

(三) 入院後は、福井医師が主治医となつて、恵美子に対する診察、治療が行なわれたが、種々の検査の結果胞状奇胎と診断され、子宮内容除去術を実施する予定であつた。

(四) ところが、同月三〇日未明、恵美子の性器出血が増強したため、当夜当直であつた軽部医師は緊急的に子宮内容除去の手術を行い、胞状奇胎を排出したところ、その所見から同医師は胞状奇胎が絨毛上皮腫に続発変化している疑いをもち、その予防及び治療のために抗癌剤メソトレキセート(Methotrexate parenteral 以下「MTX」という。)を一日一〇ミリグラム宛同日より五日間投与することを指示し、その後治療を引継いだ福井医師も右指示に従い、MTXを恵美子に投与した。

(五) 右MTX投与の結果、同年九月三日ころから恵美子に頭痛、吐気、悪心、口内炎、顔面及び下肢の浮腫、白血球数減少、貧血などの副作用が次々に生じ、九月六日に行なわれた血液検査では白血球数は僅か四〇〇にまで低下し、その後、恵美子の全身症状は悪化の一途を辿り、遂に同年九月七日死亡するに至つた。この死亡診断書には、直接死因心衰弱、その原因として貧血、出血性傾向、さらにその原因として胞状奇胎と記されている。

(六) 恵美子は同病院にて病理解剖に付されたが、絨毛上皮腫の発症は確認されていない。〈中略〉

三  抗弁

1  本件における経過的事実

(一) 入院時までの病歴

恵美子は本件当時二八才、既往歴、家族歴には特に異常は認められず、一八才で原告正詳と結婚、その後第一回、第二回妊娠は順調に経過し、正常分娩であつた。二児原告紳一、同裕彦は健康に成長したが、第三回妊娠は流産、第四回目妊娠は人工中絶を行つた。今回は昭和四四年三月一〇日が最終月経の第一日目で、四月終り頃から妊娠悪阻が始まり、六月始めより少量の性器出血を持続したので、訴外恵木産婦人科において、妊娠中毒症及び切迫流産という診断のもとに通院治療を受けていた。しかし、病状が好転しなかつたため、右恵木医師の紹介で国立大阪病院産婦人科外来に同年八月二〇日訪れ受診した。

(二) 外来来診時の検査

同日、同病院の訴外小倉医師が診察し、妊娠六か月の胎児死亡若しくは胞状奇胎の疑いをもつた。同症状の場合には尿中のH・C・G量が甚だしく増すため稀釈尿でも正常妊娠と異なり反応が陽性を示すことから、同医師は原尿さらに五倍及び一〇倍の稀釈尿にて妊娠反応テスト(プレグノステイコン)を実施したところ、いずれも陽性の結果がでたので、胞状奇胎若しくは子宮内胎児死亡の疑いと診断し、恵美子は同月二三日入院し、担当医として同病院勤務の福井医師と決定された。

(三) 入院時所見、病名診断

入院時の恵美子の全身所見としては、体格中等度、幾分繊細で、栄養状態はやや低下しており、皮膚及び粘膜は軽度貧血様、脈搏は規則正しく、乳房は中等度発育、かなり着色しており、乳汁分泌はなく、心臓は第二肺動脈音が亢進しており、肺の聴診ではほとんど異常を認めず、子宮底は臍下一横指径、児心音は聴取できず、下肢に軽度の浮腫あり、外陰、会陰部、腔入口、子宮口に異常を認めず、処女膜は破砕し、尿道は肥厚せず、外子宮口が閉鎖し、腔壁は充血様、胎児部分は触知できず、少量の褐色の帯下あり、血圧は一一〇/七〇、尿蛋白陰性であつた。そして前記入院までの経過、外来来診時の検査、入院時の所見などを総合して、入院時診断は、胞状奇胎または子宮内胎児死亡の疑いと決定された。

(四) 入院後手術までの処置

同月二五日、恵美子につきドプラ聴心器による胎児心音の聴取不能で性器出血あり、翌二六日、性器出血持続のため、胞状奇胎の診断確定の必要性から、妊婦尿のフリードマン氏妊娠反応を大阪血清微生物研究所に依頼したが同月二八日その結果は予想に反して陰性であつた。しかし、その間、性器出血が継続しており、同月二九日、福井医師は、これまで行つて来た検査及び患者の症状から、胞状奇胎あるいは胎児の子宮内死亡の診断のもとに子宮内容除去術を実施することとして、手術の前処置として同月二九日了宮頸管拡大の目的で、ジヤボラミヤ一本を子宮頸管内に挿入した。

(五) 手術の経過

同月三〇日未明、恵美子の性器出血がかなり増強したため当夜当直であつた同病院に勤務する軽部医師により緊急的に子宮内除去術が行われ、その子宮内容物は胞状奇胎であつた。同医師はその所見から破壊性胞状奇胎の疑いをもち、内容物の組織検査を依頼するとともに、悪性絨毛上皮腫の発生予防のためMTXを一日量一〇ミリグラム(朝夕五ミリグラム宛)五日間経口的投与、感染予防として抗生物質であるシグママイシン一グラム(0.25グラム一日四回)を三日間、口内炎予防及び治療のためオラトール口内錠投与を指示した。

(六) 手術後の死亡に至るまでの経緯

同日朝の血液の一般検査では白血球数が二万五六〇〇×103/mm3あり、同日午後四時頃恵美子が三九度六分の高熱を発したため、デキストロン(ブドー糖液)五〇〇CCに抗生物質であるクロマイフエニコール一本さらに止血及び子宮収縮を図るため子宮収縮剤であるメテルキンを混じた点滴静注を行つた。

同月三一日術前妊娠六か月に相当する大きさを呈していた子宮は著明に収縮し、性器出血も極めて少量となつていたが、一時平常体温に復した体温が再び上昇し、午後八時頃には三八度六分に発熱したため、クロマイフエニコール一グラムを投与した。同年九月一日さらに体温上昇のおそれがあつたため抗生物質のカネドマイシン一グラムを筋肉注射するとともに、下熱剤として即効力をもつインダシン坐薬を肛門内に挿入し、また口内炎発生が予想されたのでMTXの拮抗剤であるロイコボリンを処方しその提供を依頼した。なお、当日の検血の結果、白血球数は九五〇〇×103/mm3であつた。

翌二日も高熱が持続したため、インダシン坐薬を八時間毎に肛門内に挿入するとともに、抗生物質であるケフロン二グラム、止血を目的としてビタミンC一〇〇〇ミリグラム、アリナミン一〇〇ミリダラム、止血剤であるトランサミン二本等を混入したブドー糖液一〇〇〇CCを点滴静注し、またMTXの副作用と考えられる口内炎が発生し、患者の苦痛の訴えが激しかつたため、その軽減のためロイコボリン一二ミリグラムを八時間毎に四回筋肉注射を行い、さらに歯齦出血も認められたので、補血及び止血を目的として血液四〇〇CCを輸血した。

同月三日、口内炎が持続し、唾液に血液が混入し、口内の疼痛が続き性器出血は認められぬものの、三九度内外の高熱が続いたため、下熱、止血、栄養補強の目的でアリナミン一〇〇ミリグラム、ケフリン二グラム、トランサミン二本、ブドー糖液一〇〇〇CCを混入して点滴静注し、同日夕方の検血の結果白血球数は四五〇〇×103/mm3であつた。

同月四日、本朝の投薬で予定のMTXの投薬を終了し、発熱は全く消退したが、口内炎、歯齦部の出血、唾液の血液混入が継続したため、MTX等の抗腫瘍剤の毒性緩和からピロミジンを投与するとともに、ブドウ糖液一〇〇〇CC及びケフリン二グラムを点滴静注するほか、血液六〇〇CCを輸血し、翌日、歯齦出血増強の傾向があり、患者の疼痛しきり、顔面に浮腫が発生した。

同月六日、顔面浮腫増強、唾液に血液が混じり、咽頭部の疼痛継続、悪化、嘔吐及び高度の下痢があり、下痢を止めるためにネオロートポンを二回筋肉注射し、補液、体力増強、抗腫瘍剤の毒性緩和、肝臓庇護、止血等を目的として、五パーセントブドー糖液一五〇〇CC、アリナミン一五〇ミリグラム、ビタミンC一五〇〇ミリグラム、ビタミンB2三〇ミリグラム、ピロミジン一五〇ミリグラム、モリアミンS2二〇〇立方センチメートル、タチオン三本、レプチラーゼを点滴静注し、さらに鎮咳を目的としメジコンを四回筋肉注射したが、その後、肺部に水泡音あり、血圧下降し最高血圧一〇〇最低血圧六八で重篤な状態に漸次向つている傾向が大きかつたため、右点滴に続いて五パーセントブドー糖一〇〇〇CC、モリアミンS2六〇〇CC、タチオン六〇〇ミリグラム、メジコン三本、アリナミン一〇〇ミリグラム、ビタミンC一〇〇〇ミリグラム、ビタミンB2四〇ミリグラム、ビロミジン一〇〇ミリグラム、強心剤としてビスカンフア及びジギタミンの筋肉注射、下痢止としてネオロートポンを筋肉注射し、酸素マスクを使用した。

同月七日、容態急激に悪化し、吸引器で口腔内につまつた粘着力の強い血性分泌物を吸引したが、脈搏細少微弱、血圧低下し、人工呼吸を持続したものの死亡するに至つた。

(七) 病理解剖の所見

恵美子死亡後、家人の解剖許可を得て、同人を病理解剖したが、血性の腹水約七〇〇CC、諸内臓に出血斑があり、右肺上葉に相当な出血、また食道粘膜全面に黒色のびらん(ただれ)が著明で、子宮には手術による損傷や胞状奇胎の残留は全く認められず、左卵管角に小指頭大の破壊性胞状奇胎を疑わせる部分が認められた。〈以下、事実省略〉

理由

一請求原因1、2(ただし完全に治療すべきという点を除く)及び3の(二)ないし(五)の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二そこで、以下、被告の債務不履行責任の有無につき判断する。

1 前記一の如く、当事者間で医療契約が締結された事実は争いのないところであるが、その医療契約の性質は胞状奇胎及び関連する病気の治療を目的とする準委任または請負の要素がある非典型契約と解され、そうであれば、被告の補助機関である軽部及び福井は右契約履行に際し、一般に医師が所定の資格を得て直接人の生命及び身体の安全にかかわる重大な責任を伴なう医療業務に従事し、その治療行為自体人の生命及び身体の健全性を害する可能性が常に存する以上、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されていたというべきである。もつとも、右注意義務とは医学の最高水準における注意義務ではなく、平均的な一般の医師としての注意義務を指し、本件当時における我国の医学知識ないし治療技術の水準に照らし、医師として当然なすべき注意義務を尽している場合には、たとえ治療の結果、予期した成果をあげられず不幸な転移をとつたとしても、右の結果について民事上の債務不履行責任を問われることはないと解すべきである。

そこで、右の前提のもとに、本件において、軽部及び福井医師の恵美子に対する治療が適切なものであつたか否かについて、以下順次判断することとする。

2  まず、原告は、軽部及び福井両医師がMTXを投与したこと自体が注意義務違反である旨主張するので検討するに、

(一)  抗弁1(一)(二)の各事実、1(三)のうち最高血圧を除くその余の事実、1(四)(五)及び(七)の各事実はいずれも当事者間に争いがない。

(二)  右(一)の争いのない事実、〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

(1) 一般に妊娠が成立すると、子宮内膜に脱落膜、絨毛膜、羊膜の三層を新しく生じ、絨毛膜には絨毛と称される小突起が無数に存在するが、妊娠が正常な経過を辿らず、絨毛膜絨毛が胞状塊に変化し異常に増殖したものを胞状奇胎と称し、胞状奇胎がさらに子宮筋層内に侵入し発育増殖したものを破壊性胞状奇胎という。胞状奇胎との確診がつけば直ちに子宮内除去術を実施し、手術後はフリードマン氏妊娠反応を定量的に行いHCG値の消長を観察し、一ないし二か月以内に大半は陰性化するものの、それ以上陰性化が認められぬ場合は胞状奇胎として治療する範囲を越え絨毛上皮腫と考えられる。妊娠または分娩を契機として絨毛組織の異常増殖という形態をとる胞状奇胎、破壊性胞状奇胎、絨毛上皮腫の三つを総括して絨毛性腫瘍という。

(2) MTXは米国レダリー研究所で開発された葉酸代謝拮抗剤で絨毛性腫瘍に治療効果が認められているが、反面、その副作用も強く、口唇、口腔、咽頭等の粘膜びらん、有痛性潰瘍、食思不振、悪心、嘔吐、下痢、肛門痛等の消化管症状を初発症状とし、皮ふの発疹、紅斑、座瘡、小膿庖等の皮ふ症状、骨髄障害による白血球減少、血小板減少、その結果としての感染、発熱、出血傾向がみられるが、個人差も顕著であり、一般には重篤な結果を招くことは少ない。MTXは経口、静注、筋注によつて投与されるが、従来は、死亡率の高い絨毛上皮腫で五〇〜六〇%、破壊性胞状奇胎で一〇〇%の緩解率を上げ、治療的投与として効果を上げてきた。

(3) しかし、昭和四二年頃、奇胎除去後、絨毛上皮腫や破壊性奇胎への悪性化を比較的早期に未然に防ぐ目的でMTXを予防的に投与する試みが行われ、これが学会一般で支持された。すなわち、絨毛上皮腫又は破壊性胞状奇胎は胞状奇胞にひきつづいて発生する場合が多いが、胞状奇胎と診断された時期にはすでに破壊性胞状奇胎又は絨毛上皮腫が発生していたと考えられる症例が経験され、かかる場合にMTXを早期に予防的に投与することによつて絨毛上皮腫又は破壊性胞状奇胎の発生率が減少していることが九州大学医学部産婦人科の大量の実験例によつて証明されたことから、絨毛上皮腫発生予防のための積極的処置の観点にたち、MTXを胞状奇胎除去後三週間以内に早期に投与することが効果的であるとの見解が有力であつた。もつとも、右見解に対して、現在の知識段階において奇胎を腫瘍であるとは断定できないから、絨毛上皮腫や破壊性胞状奇胎の発症が強く疑われる症状の発症をみてから投与しても遅くないとの見解や、これをルーテインに行うことに対して胞状奇胎の予後とMTXの副作用を考慮して余程の管理態勢がない限り慎重でなければならないとの指摘がある。

(三)  しかるところ、原告は被告の管理態勢の欠如を主張する。証人福井健二、同軽部泰則の各証言によれば、軽部医師は当時同病院産婦人科医長で主治医の福井医師の上司であつた者であるが、前記の如く緊急手術後、摘出した内容物の一部を翌日病理検査に回わしたが、福井医師には口頭で右内容物について中等度の壊死状態があり悪性の疑いがあると報告したのみで、MTXの経口投与を指示し、右内容物を福井医師に示さなかつたこと、右以外に右両医師間、又は同病院の医師間で本件につき特別、症例研究又は右投与についての検討等をしていないこと、右手術前、又は投与前に恵美子に対する血液、肝機能、腎機能の諸検査及び貧血、浮腫に対する治療を一切していなかつたことが認められる。しかし、まず右投与前の検討については、〈証拠〉によれば、軽部医師は、恵美子が最終月経の三月一〇日から手術時まで六か月弱も経過し、出血があつた六月初めから二か月余を経過しているのに胞状奇胎のまま手術をしないで放置されていたことから、これが悪性化していることを予想し、且つ絨毛上皮腫に変化する可能性があると推測し、現に摘出した内容物に壊死状態が認められたので、MTXの早期予防的投与が適切であると判断し、MTXの有効量の最低値の五〇ミリグラムを副作用の影響の最もうすい経口投与で五日間投与することを指示し、これを引きついだ主治医の福井医師も、自己の体験した約三〇例の胞状奇胎の症例から、通常の相当期間内の手術例でも約八%が絨毛上皮腫に転移していることから、本件の如く手術が異常に後れた場合は右転移の疑いが非常に強いと判断し、且つ前記九州大学の実験例からMTXの予防的投与を肯定して、右指示どおりこれを投与したこと、しかして前記内容物の病理検査の結果は、胞状奇胎が悪化した絨毛腺腫と判定され、更に恵美子の解剖結果では、胞状奇胎を伴つた子宮壁の出血性壊死、子宮壁上部に破壊性胞状奇胎を思わせる部分ありとの判定がなされていることがそれぞれ認められる。右によれば、確かに恵美子は絨毛上皮腫ではなく、また完全な破壊性胞状奇胎であつたと断定することはできないが、少くとも破壊性胞状奇胎の初期段階か、又は右に移行する段階にあつたものと推認して妨げない。右認定の状況下にあれば、右両医師らがMTXの投与について検討しなかつたとしても、右両医師はともに経験豊富な医師であり、恵美子の状態が絨毛上皮腫又は破壊性胞状奇胎に転移する可能性が非常に強いと判断し、当時の学会の有力見解に従つてMTXの投与指示及び投与をなしたものであり、右検討をしなかつた点についてはなんらの注意義務違反はなかつたものというべきである。次に投与前の各検査懈怠については、一般論としても、MTXは造血機能に対する副作用があるから、特に血液検査、腎機能検査についてはこれがなされるべきことが望ましい。しかも〈証拠〉によれば、恵美子は六月初めから少量の出血が続いており、手術当日も多量の出血をみており、同日の診断では、皮ふ、眼瞼粘膜が貧血状態であり、且つ軽度の浮腫が発生していることが認められており、又術後、投与後の血液検査では、赤血球、ヘマトクリット、ヘモグロビンはいずれも正常値を下廻つていたことが認められる。右によれば、恵美子の貧血状態はかなり進んだ程度のものと窺われ、且つ体力を消耗していることも窺われるが、前記認定事実を併せ考察すると、右以上に恵美子の胞状奇胎が緊急を要する極めて異常な状態であつたから、右各検査をすることなく前記両医師が早期にMTXの有効量の最低値の経口投与を指示し、これを投与したことはやむを得ない措置であつたものと認めざるを得ない。

(四)  右の次第で、右両医師がMTXの投与を指示、実施したことになんらの注意義務違反はないものというべきである。

3  次に、原告は、福井医師がMTXの投与を中止しなかつたことに注意義務違反がある旨主張するので検討するに

(一)  抗弁1(六)のうち、八月三一日から九月二日までの恵美子の症状、九月五日の恵美子の疼痛、同月六日の肺部の水泡音、血圧下降、重篤状態傾向、九月一日のロイコボリンの処方提供依頼、九月一日の白血球数、九月五日の顔面浮腫発生を除くその余の事実は当事者間に争いがない。

(二)  〈証拠〉によれば、MTX投与には前認定の如く副作用があるから、ある程度の副作用は避け難いものの、危険に陥る以前に投薬を中止する必要があり、厳重な管理を要するが、反面投薬の中止が再発につながりやすいことから、最初から高蛋白食や補液などに注意し、できるだけ中止しないで充分量が与えられるように努力するのが大切であること、投与中止の指標として、制癌剤一般の場合、白血球数三〇〇〇以下、血小板数七五〇〇以下または治療開始前の半分以下を、あるいはMTXの場合、白血球数三〇〇〇以下血小板数一〇万以下が考えられていることの各事実が認められる。

(三)  〈証拠〉によれば、手術当日の午後四時二五分、恵美子は三九度六分、翌三一日には三八度六分、九月一日は四〇度二分、二日は三九度六分、三日は三九度二分と高熱状態が続いたが、右は手術による一過性の感染症であつたことが認められる。

(四)  右各証拠によれば、八月三〇日の血液検査の結果によれば、赤血球数は二七二×104(正常値は女性の場合、四〇〇×104)、白血球数二五六〇〇、(但し血液ガンの所見はない)、ヘマトクリット二七%(正常値三四〜五%)、ヘモグロビン9.6グラム/dl(正常値一一〜一二グラム)であつて、血小板(栓球)検査は行われなかつたこと、九月一日のそれによれば、赤血球数は二五八×104、白血球数は九一〇〇、ヘマトクリット二四%、ヘモグロビン8.3グラム、血小板8.2×104(正常値一三×104)であり、貧血検査ではMCH三二(正常値二七〜九二)、MCV九三(正常値八二―九二)MCH三五%(正常値三二〜三六%)であり、貧血状態はある程度進んだ状態であつたこと、九月三日のそれは、赤血球数は二三〇×104、白血球数四五〇〇、ヘマトクリット二三%、ヘモグロビン八、〇グラム、血小板七、八×104、MCH三五、MCV一〇〇、MCHC三五であつたことが認められる。

(五)  前記各証拠によれば、恵美子は九月二日、軽度の口内炎及び浮腫が発生し、口内炎はだんだんと強くなり患者が苦痛を訴え、同月四日にはその極に達し、一方、浮腫も同月四日には顔面に及び、食欲も減退したことが認められる。

(六)  右認定事実のもとに福井医師の注意義務を検討するに、まず高熱による感染症につき、原告は恵美子が既に肉体的に消耗しているから、右消耗とMTXの投与を同時に併行させるべきでない旨主張するが、証人軽部泰則の証言によれば、本件の場合、右を併行させることに特別問題はないこと、本件は敗血症ではないことが認められるから、右主張は採用することができない。次に、MTXの副作用はその造血機能に影響を及ぼすから、前記血液検査の結果にその副作用が現われてきているものと推認される。しかしてまず白血球数についてはその正常値は一般に五〇〇〇ないし六〇〇〇であり、その半分の三〇〇〇以下が投与中止の一応の指標であるところ、本件の場合、二五六〇〇から九一〇〇に激減したが、右は感染症による一過性の高値であつたものが抗生物質の投与によつて平常値に近づいたものであるから、右二五六〇〇をもつて治療開始前の数値と認めこれを基準として右指標値を求めることは相当でない。そして白血球数は九一〇〇から四五〇〇に減少しており、これは抗生物質の投与とMTXの副作用の双方によるものと推認されるが、右四五〇〇は前記中止の基準値より上であるから、白血球数の点では問題がないものと思料される。もつとも、原告は右白血球の三〇〇〇の数値は投与中止の指標ではなく、投与による不可逆性の限界値にすぎない旨主張し、乙第六号証にはこれに沿う記載があるが、前記認定を覆すに足るものではない。次に血小板数については、九月一日現在ですでに指標数一〇万を下廻つていることが明らかであるが、証人福井健二の証言によれば、MTXに関しては主として白血球数がその指標となることが認められるほか、同証言により認められる同医師の過去の経験や見解さらに前記認定の投与中止による弊害を考慮すると、この点について同医師に対し民事上の責任を問いうるまでの注意義務違反はなく、同医師の裁量権の範囲内といわざるをえない(もつとも、右白血球の減少があまりに急激であること、血小板が指標以下に減少したこと、貧血状態が進んでいたこと、口内炎が進み患者が苦痛を訴えていたこと、浮腫が発生し、感染症による高熱が続いたことから、恵美子が相当に体力を消耗していたと推認され、適切な時期にMTXの投与を中止すべきであつたとも考えられないではないが、MTXの治療方針そのものに誤りがない以上これをもつて注意義務違反と認める程の期待可能性(有責性は認められない)。

4  次に、原告は、福井医師がMTXの副作用に対する適切な措置をとらなかつたことに注意義務違反がある旨主張するので判断するに、

(一)  〈証拠〉によれば、同医師は口内炎の消炎のため九月二日からオラドールを一日六錠、三日間投与したほか、MTXの拮抗剤であるロイコボリン一二ミリグラムを八時間毎に四回筋肉注射していることが認められ、その他前記認定の争いのない薬剤の処方によれば、同医師に薬剤の処方関係でなんらの注意義務違反はない。

(二)  右各証拠によれば、同医師は九月二日に四〇〇CC九月四日に六〇〇CCの輸血をしていること、右輸血量は決して少ない量ではないこと、九月五日、六日は同医師は輸血の必要を認めず、輸液で代替していることが認められる。しかるところ証人軽部泰則は、九月五日、六日も輸血を続行すべきであつた旨供述するから、一応その必要性を肯認することができるが、その効果は不明であるからこれをもつて直ちに福井医師の注意義務違反と認めることはできない。

5  以上の次第で、福井医師がMTXの投与を中止しなかつた点、及び輸血を続行しなかつた点に全く問題がない訳ではないが、福井及び軽部医師の責に帰すべき注意義務違反があつたものとは認め難いから、結局、被告は診療契約上の債務不履行責任はないものというべきである。

三恵美子の死亡診断書には、直接死因が心衰弱、その原因として貧血性傾向、さらにその原因として胞状奇胎と記載されていることは当事者間に争いがないが、右記載はあまりに簡略にすぎ、これをそのまま死因と認めることには抵抗がある。原告は前記の如くMTXの使用による副作用を問題とするが、〈証拠〉によれば、MTX投与による中毒死の症状はなく、また重篤な副作用のためにMTXの投与を全く放棄しなければならなかつた症状は経験されていないことが認められるから、MTXの本件副作用が恵美子の死因にどの程度その影響を与えていたかは証拠上明らかではない。したがつて、仮に福井医師に前記の点でなんらかの手落ちがあつたとしても、本件投与量は有効量の最低値であるから、その副作用が白血球及び血小板減少、さらに出血性傾向の有力な要因であつたものとも認め難く、むしろ恵美子の極めて異常な胞状奇胎摘出までの状態、その後の同人の体力、個体の特性、破壊性胞状奇胎の初期段階の症状等がその死因に関係しているものと窺われる。よつて、本件はその死因との関係でその因果関係についても証拠上明らかでないといわざるを得ない。〈以下、省略〉

(久末洋三 塩月秀平 楠眞佐雄)

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